3度目のスリーパス-出発まで2017/03/04 12:15

さて、2015年12月のトレッキングを無事に終えたものの、コンマ・ラを越えなかったことが心残りだったので、来年はどこへ行こうかと考えたときに、わりとすぐにスリーパスにもう1度挑戦しようと決めた。ディンボチェで体調を崩して、どの峠を越えることなく、トレッキングの楽しさも感じることなく敗退した2012年、再度挑戦してレンジョ・ラは越えたものの、チョラ越えの前日、積雪にあって下山した2014年に続く3度目の挑戦になる。コンマ・ラに限っては、自信がなくなってトゥクラ・パス回りに変更した2015年を加えれば4度目の挑戦となる。
さて、ルートを決めたので、いつものように自分でスケジュールを立てて、ヒマラヤン・アクティヴィティーズの春日山さんに連絡をとったところ、ラジューくんが別の会社に移ったことが分かった。春日山さんは、これまでの事情をよく知っているので、寛大にも「ガイドは馴れた相手の方がいい、うちはいいので、直接ラジューくんに頼んでみたらどうか」と言ってくれた。そこで、ラジューくんにメールをして、あれこれやりとりをしたのだが、快諾というわけにはいかず、結局前々回前回と2度ポーターについてくれたラジューくんの兄ニルクマールさんにガイドを、ニルクマールさんの息子のルペシュくんにポーターを頼むことで話が落ち着いた。問題はニルクマールさんにガイドの資格がないことだが、これはチェックポストで何が聞かれたら、私が「友人の彼に頼んだ」と答えることになった。これは全然まったく嘘ではないので、気が楽だ(とはいえ、チェックポストで何か聞かれるということは一度もなかった)。ところが9月に谷川岳に友人と日帰りでトレッキングに行った他は、仕事が猛烈に忙しくなり、トレーニングらしいトレーニングもできないまま12月を迎えた。

3度目のスリーパス-Tokyo to Kathmandu2017/03/04 12:19

12月5日3時30分起床。今年も帰国便の変更がきく大韓航空の仁川経由を選んだのだが、問題が1つ。春からカトマンドゥ便のスケジュールが変更になり、仁川発が午前中から13:25発と遅くなった。つまり、成田を早朝発って同日夕刻カトマンドゥ入りが可能になったのだ。それはいいのだが、成田を発つ時間が早まった結果、朝も早く起きねばならない。早朝だからバスでもいいかと思ったが、結局はいつものように成田エクスプレス、それも6:00東京駅発の1号にした。留守中、友人が泊まりにくるので、替えのタオルとシーツの用意をして、トランクを閉めようと思ったら閉まらない。そろそろ10年になるトランクだが、鍵の素材が悪いか、私の扱いが悪いのか。あせって何度も上から抑えているうちになんとか閉まったが、不安なので成田空港のキオスクでベルトを買って締めておいた。
9:10成田発11:50仁川着、手荷物チェックを受けて、13:25仁川発18:10カトマンドゥ着。この便は仁川でトランジット泊せずに済むので楽だけど、カトマンドゥに着く頃は夕方になり、機上からエベレストが見えないことに気づいた。もう窓側の席に固執しなくていいかもしれない。
さすがに韓国人のトレッカーが多く、バゲージ・クレームは大混雑だったが、私は税関も楽々通過、荷物もすぐ出てきて、なんと15分という記録的早さで外に出られ、待っていたラグーさんと合流、いつものホーリー・ヒマラヤまで送ってもらった。ホテルは入口に立っていたガードマンも、レセプションの顔ぶれも変わっていた。
ダブルベッド2つというだだっ広いツインルームに荷物を置いて、夕飯でも食べようと、いつものようにギリンチェへ。ここも、いつもの顔なじみのお兄さんの姿が見えなくてがっかり。ラム酒とお湯を頼んで、ちびちび飲みながらベジモモが出来るのを待っていると、前に座っている人が振り向いたと思ったら、なんとツトムくんだった。去年、ゴラクシェプで我々と別れた後、ユーラシア大陸を自転車で西に横断したツトムくんは、トルコのイスタンブールに着いたところで、冬のヨーロッパを自転車で走るより、ネパールでトレッキングをして過ごそうと賢明な判断をし、私が12月にまたネパールに行くと知って、大阪の家に置いてあるダウンジャケットを持ってきてくれと頼んできたのだった(ジャケットはお母様が我が家に送ってくれた)。これからメールでもして明日落ち合おうと思っていた当の本人にこんなところで(なんて言ったら失礼だが)会えるとは。

3度目のスリーパス-Day 0 Kathmandu2017/03/04 13:18

12月6日晴れ。7時30分起床。シャワーを浴びると熱いお湯が出た。去年とは大違いである。なんとカトマンドゥでは、あの悪名高い計画停電がなくなっていたのだ。シャワーの後、1階のカフェ兼食堂で朝食。初めてこのホテルに泊まった2008年からずっといるお兄さんがまだ働いていた。あの頃は卵の焼き方を含めて全部注文できたが(インド系のホテルなので基本は英国式)、今はビュッフェスタイルで、すべてセルフである。
10時にヒマラヤン・アクティヴィティーズのオフィスに行き、打ち合わせと精算。今回ポーターについてくれるルペシュくんと初顔合わせ。ルペシュくんは春日山さんが言っていた通り”ちょっと頼りない”感じがする青年。目端がきき、自信たっぷりなラジューくんとは大違いだ。まだ学生で、経験は浅いが、気立てのいいのが取り柄。春日山さんから新兵器・血中酸素濃度測定器を手渡される。9月にピッキー・ピークへトレッキングに行った40代の日本人医師が高山病を発症して亡くなったのだそうで、用心のためゲストに自分で酸素濃度を測定して高山病を予防してもらおうということらしい。その場で測ったら95%(↓)で、70だか60だかを切ったら危ないとか。のちのち50%を切ることもあったが(そういう場合は深呼吸をするとかなり改善する)、高山病にはならなかった。亡くなった方が過去に何度もヒマラヤを訪れていたこと、ピッキー・ピークが4000mほどしかないこと、症状の悪化があまりにも早かったことを考えると、おそらく高山病ではなく、心臓発作か何かではなかったかと私は思う。
打ち合わせを済ませた後、ラジンパトのビッグ・マートへ買い物に。タメルにあるスーパーは高いうえに感じが悪いので、たいていここに行くことにしている。去年はインドの経済制裁でほとんど何にもなかった棚が物で埋まっていてホッとする。朝、顔を洗うときに保湿クリームを忘れてきたのに気づいたので、代わりにワセリンを買い、行動食用にピーナツと干しぶどうを買った。いつも何かしら食べ物を持っていくが、あまり食べないで持ち帰ることが多く、今回もピーナツと干しぶどうは東京に帰ってから食べた。ビッグ・マートへ行く途中の王宮裏の交差点(↓)
昼食はお馴染みハンコック・サランでビビンバを食べてゴルカ・ビールを飲み、夜はツトムくんと桃太郎で待ち合わせて、焼き鳥、餃子でエベレスト・ビールを飲んだ。昼夜ともビールが飲みたいがためのチョイスである。ツトムくんにダウンジャケットを手渡してミッション・コンプリート。代わりに去年のトレッキングのときに彼が撮った写真をもらった。

3度目のスリーパス- Day 1 Lukla to Monjo2017/03/04 14:21

12月7日晴れ。
4時34分起床。4時に目覚ましをかけておいたのに、鳴らなかったのか鳴っても気づかなかったのか。とにかく慌てて荷造り。5時05分にラグーさんが迎えに来てくれたが、少し待たせてしまった。いらない荷物を入れたトランクをホテルに預け、ラグーさんの車で空港へ。空港でルペシュくんと合流し、去年新しく建てられた立派な国内線の建物に入り、チェックインを済ませて待合室へ入ると、そこは元のままの古い待合室だった。新しいのは外側だけだったのだ。
6時45分、私たちの乗ったタラ・エアーの2便が離陸。乗客は、ほとんどクーンブが初めてのトレッカーばかり。7時25分にルクラの飛行場に着き、ニルクマールさんと再会。ナマステ・ロッジに寄ってブラック・ティーで休憩した後、8時35分にトレッキング開始。ルクラ村のカニ(↓)をくぐって、いよいよエベレスト街道へ。
問題は9月から全然歩いてないことだった。冗談で、トレーニングしながらトレッキングすればいい、なんて言っていたが、本当にそうなってしまった。私があんまり自信なさそうな顔をしていたのが分かったのか、ニルクマールさんからザックを持ちましょうと言われて、うっかりお願いしてしまう。その後は早かった。ロンリープラネットの設定で5時間30分の行程を、なんと4時間30分で歩いてしまったのだから。
去年は地震の被害で胸が潰れる思いだったが、今年は覚悟があったからか、それほどでもなかった。崖崩れにあったザンフテからトクトクへの道(↑)が前のような木陰の道になるまで何年何十年かかるか、あるいはこのままかもしれない。落ちてきた大岩が中まで転がってきたロッジは、ほとんどそのまま残されていた(↓)。
泊まる予定だったパクディンを素通りし、13:00に早々モンジョのマウント・カイラス・ロッジ着。さすがに気分が悪く、ホットレモンを2杯飲んだものの、頼んだサンドイッチが食べられなかった。ペースが速すぎたのだ。これまでペース作りはガイドがやってくれたのだが、ニルクマールさんがプロのガイドではないことを忘れていた。これからは自分で自分のペースを作らなければと反省。幸い、部屋で少し休んだら気分が直ったので、ホットマンゴージュースを飲み、夕食にはブラック・ティー(トレッキング中は禁酒)でベジモモを食べた。