その後の奥山行―イェティ発見2009/01/25 07:56

発見されたイェティ(偽物)

入口で金属探知器のチェックを受け(何を探すためなのかは不明)、館内に入ると、そこは吹き抜けになった広いホールの2階で、やけにがらんとしている。展示室はどこだろう?と思ったら、そのホール自体が展示室なのだった。順路の矢印に沿って1階に下りていくと、ネパールの自然や文化を紹介する部分から展示が始まり、つづいて目玉であるヒマラヤ登山史の紹介になる。8000M峰は世界に14座あって、世界最高峰といえばこの14座をあげるのが普通だが、ネパールではアンナプルナまでのベストテンをあげることが多いように思われる(アンナプルナのお膝元にいたせいかもしれない)。こうするとK2とナンガ・パルバット以外の世界最高峰はすべてネパールのものになるのだ(11位以下はパキスタンか中国かチベット)。ネパールの人たちがヒマラヤを誇りに思うこと、静岡県人(私もその一人)が富士山を誇りに思うことに似ている。そこに山があることに人は何の関与もしていないが、まるで自分のもののように自慢することである。エベレストの美しい写真を前に、テジくんの解説を聞く。ABCに着いて当初の目的を達成してしまった私は、次の目標をカラ・パタールに定め、EBCに行ってきたばかりのテジくんから、エベレスト方面のトレッキング情報をいろいろ聞き出していたのだ。実物の写真を前にすると、ますます自分の目で見たくなる。国際山岳博物館は、運営こそネパール登山協会だが、中身は(おそらく建物自体も)ほとんど各国の登山協会の協力で成り立った、かなり他力本願な博物館だった。ネパールではまだまだ博物研究分野が未発達未分化なのだろうし、研究を充実させる経済的な余裕もないに違いない。しかし、片隅で思いがけないものを発見した。イェティだ!(ここにいたって、博物館が真面目なのか、ふざけているのか、わからなくなったが) さっそく記念写真を撮った。

その後の奥山行―マチャプチャレに登る2009/01/24 12:29

登れるマチャプチャレ

テジくんも行ったことがないというので、一緒に国際山岳博物館へ。ポカラ空港のフェンス際を行く近道に入ると、地図から想像できるような野原の1本道ではなく、どんどん住宅地に入っていってしまう。このあたりは新興住宅地らしく、建築中の家がたくさんある。「ああいう家は、たいてい外国に出稼ぎに行った家族の仕送りで建てられているんです」とテジくん。見ると、コンクリートが乾くまでの支えなのか、天井を何本もの竹で支えていて、その竹がたわんでいる。あんな建て方で大丈夫なのかなあ。ランドルクでの事件を思い出し、「ネパールは地震がないの?」と聞くと、「ありません」ときっぱり(実際は、たまに起こるらしい)。住宅地の道は次第に世田谷状態になり、どの道がどの道なのかわからない。だが、テジくんがその辺にいた人にかたっぱしから聞いてくれたおかげで、無事、博物館に到着。入口で入場料(外国人は300ルピー)を払い、中に入ると広大な敷地に立派な建物がたっていた(カトマンズの国立博物館より、はるかに立派だった)。前庭の中央にタルチョで囲まれた記念碑があり、“命を失った登山家に捧げる”と英語で書いたプレートがはまっていた。敷地の一角に遊園地の滑り台のような白い小山ができていて、よくみるとマチャプチャレの形をしている。本当のマチャプチャレは登ることができない(聖山なので登山許可が下りない)が、ここなら大丈夫。ということで、テジくんがするする登っていった。ガイドの試験を受けるために、ロッククライミングの講習も受けたのだそうだが、彼ならこの程度の“山”は朝飯前だろう。

うゐの奥山行(終)―浅き夢みし…2009/01/23 08:55

ヒマラヤの中心でヤッホーと叫ぶ

10時45分、ポカラのマムズ・ガーデン・リゾート着。ホテルは出かけるときと何も変わらず、ブーゲンビリアが咲き乱れ、穏やかな陽光にあふれていた。8日間のトレッキングがまるで夢のように思える。私はここにもう2泊し、24日に飛行機でカトマンズに戻るのだが、テジくんたちはまたバスかと思ったら、モヘンドラくんには、再びABCへ行く仕事が入ったそうだ。テジくんがランドルクで電話をかけていたのは、トレッキングの経過報告とともに次の仕事を確認するためだったのだ。ただ、テジくんには仕事がなく、このまま何もなければバスでカトマンズに戻るのだと、ちょっと浮かない顔でいう。ともあれ、今日明日は暇だというので、午後から一緒に国際山岳博物館へ行く約束をした。2時にホテルのロビーに現れたテジくんは、着替えもすませて晴れ晴れとした顔になっていた。あのあと会社から連絡が入り、プーンヒル4日間のガイドの仕事が決まったのだという。町外れの博物館へいく道すがら、おかげでとても楽しいトレッキングになったとお礼をいうと、「私も、お母さんと一緒にいるみたいで、家を出てから初めて寂しくなかったです」といってくれた。その気持ちはうれしかったが、年齢のギャップ(勘違いともいう)は最後まで埋まらなかったなと、ちょっとがっかりした。

うゐの奥山行(29)―ダンプスからフェディへ2009/01/22 13:04

朝焼けのアンナプルナ・サウス

12月22日、トレッキング最終日。ビールとロクシーが効いたのか、明け方、何度もトイレに起きる。外は暗いが天気は悪そうだ。7時に起きる頃には、少し晴れて、朝日に染まるアンナプルナ・サウス、ヒウンチュリ、マチャプチャレがかろうじて見えた。ミントティーを飲みながら最後の景色を楽しんでいると、雲がどんどん出てきて山々が隠れてしまった。8時にヴェジタブル・ヌードル・スープの朝食をとり、景色が悪ければここにいても仕方がないので、9時に出発する。昨日散策した村の道を途中から右折し、フェディへ下りていく。いつものようにテジくんがザックを持とうとするが、最後だからといって固辞する。下るにつれて、すれ違うトレッカーが増え、彼らがお姫様状態の私に投げかける嘲笑(と嫉妬?)を含んだ視線が気になっていたところでもある。急な下りに入ると、テジくんが「先に行って車の手配をします」といって、モヘンドラくんに何事か伝えると(私から目を離すなといったに違いない)、脱兎のごとく駆け出していき、たちまち見えなくなった。ずっと私の後ろで私のペースに合わせて歩いていた彼が、これまでのうっぷんを晴らすかような、目の覚めるようなスピードだった。9時55分、フェディ着。待っていたテジくんが、「トレッキング、成功おめでとうございます」といって首にカター(チベットの白いスカーフ)をかけてくれる。タクシーの運転手にカメラを渡し、3人で並んで記念写真を撮った。後でよくみたら、ピンボケだった。

うゐの奥山行(28)―ダンプスにて(後)2009/01/22 08:47

ダンプスの村

昼食のあと、テジくんとダンプスの村を散策。なんとなく日本の田舎に似ていて、共通の文化的ルーツを感じる。縁側で機織りをしているところを見せてもらったり、子犬を抱かせてもらったりして、どんどん歩いていくと、フィンランド人青年一行に出会った。ここにいても仕方がないので、早めにポカラに戻ることにしたといって荷造りをしている。このあとはインドへ行くというので、彼らがインド人に騙されないよう(心の中で)祈った。ロッジに戻り、庭でビールを飲みながら(曇って山が見えなくなったので)あたりの風景をスケッチしていると、どんどんゲストがやってきた。北欧人らしいカップル、イタリア人の新婚カップル、ロシア人の若い女性、それぞれの連れているガイドとポーター、私たちも入れると合計13人。このトレッキング始まって以来の大所帯だ。テジくんは「夕食も私が作るから大丈夫」といっていたが、急遽オーナーの親戚のおばさんが呼ばれ、彼女が夕食を作ることになった。親戚もロッジを経営しているのだが、そっちにはゲストが一人もいないそうだから、当然の処置だろう。ということで、夕食は気になっていたトマトチーズ・ピザにした(トマトソースがちょっと甘めだったが、とてもおいしかった。さすが高山病に打ち勝ったピザである)。トレッキング最後の夜、すぐに寝てしまうのが惜しくて、食堂で日記をつけたり、デジカメの写真を見返したりしていると、テジくんが「退屈ではないですか、何か飲みませんか」という。本来なら、これまでの労をねぎらってゲストが1杯おごらねばならないところだが、テジくんはお酒も煙草もやらないし、モヘンドラくんは未成年だし、と思って逡巡していると、遠慮していると思ったのか、「おごりますよ」といってロクシー(焼酎に似たお酒)を1杯おごってくれた。ありがとう、テジくん。ごめんね、至らないゲストで。