テンジン・ヒラリー・ルートを歩く Day0 出発 ― 2016/01/03 10:02
2014年12月に2度目のスリーパス・ルート挑戦を雪で断念した際、雪に降り込められたタンナのロッジでガイドのラジューくんと来年はどこへ行こうかという話になり、スリーパスのうち、チョラとレンジョラは越えたので、残ったコンマラを越えようということになった。カトマンドゥのマップ・ハウスで土産物を物色していて、カトマンドゥからのバスが着くジリからエベレスト・ベースキャンプ(EBC)までの道筋をテンジン・ヒラリー・ルートと名付けた地図を見つけたので、2015年はテンジン・ヒラリー・ルート+コンマラで行こうと心づもりをした。

2015年は、4月に大地震が起こり、9月にネパールが制定した新憲法ではインド系住民の権利が制限されるとしてインドが国境を封鎖して圧力をかけと、ネパールにとって激動の年になった。が、だからといってトレッキングを止める理由にはならないので、いつものようにヒマラヤン・アクティヴィティーズにアレンジをお願いし、いつものように大韓航空で12月3日成田を発った。

12月4日、仁川経由で14時50分にトリヴバン空港に着き、ラジューくんとニルグマールさんの出迎えを受け、タクシーで市内へ向かう道すがら、インドの国境封鎖によるガソリン不足でバス便が減っているため、いつもは禁止されているバスの屋根にも人が乗っている風景を見たけれど、想像していたより車の数は減っていなかった。聞けば、最初は車が激減したものの、今では闇でガソリンを手に入れ、ほとんど元に戻ったそう。
いつものようにタメルのホーリー・ヒマラヤに投宿(なんと去年までの旧館は閉鎖され、新館をメインに使っていた)。ロビーでトレッキングの打ち合わせ。私が立てたスケジュールは正味18日間だったが、今ではバンダルまでバスが行くようになったので、17日間のスケジュールに変わっていた。この1日の短縮が後で響いてくることになる。
テンジン・ヒラリー・ルートを歩く Day1 Bhandar ― 2016/01/03 10:35
12月5日
4時過ぎに起きて荷造り。5時15分に来ると言っていたタマン兄弟は5時45分頃、友人のバイクに乗って現れる。遅れてくるとは思っていたので驚かなかったし、ジリ方面のバスが出るシティ・バスパークまで歩いて10分もかからないので6時の出発に悠々間に合う、と思ったら、そこではなく、慌ててタクシーで移動。ナヤ・バスパークでもなく、空港の先の方に大型バスが並んでいるところだった。ラジューくんが電話で連絡していたらしく、私達が来るのを待っていてくれ、20分遅れで出発。バスは全席指定だが、私の席には既におばさんが座っていて替わってくれないので、各自空いているところに着席する。

バスが走り出すと間もなく、前の席のおばさんと後ろの席のおばさんが交替で窓を開けてはゲロゲロするようになる。やれやれ。10時ちょっと前に昼食休憩。私の分はいつもガイドが払ってくれたのでわからなかったが、昼食は有料で250ルピーだった。2年前にランタンへ行くときに乗ったバスもかなり揺れたが、ジリへの道はそれ以上に揺れる。

と、突然バスの屋根をバンバン叩く音がして急停車したので、何事かと思ったら、屋根に乗っていた人が落ちたのだった。落ちたのは酔っ払ったおじさんで、車掌から乗るなと言われていたのに無視して乗ったらしい。ともあれ怪我がなくてよかった。私達も足止めを食わずに済んでよかった。

13時30分ジリ着。しかし、そこから先の道がとんでもない悪路だった。日光のいろは坂が直線に見えるほど(大げさ)。これでは歩いた方が楽だな(1日かかるけど)と思いつつ、17時10分、3時間半ちかくかかって、ようやくバンダル着。辺りは、ほとんど暗くなっていた。

バス発着所前のロッジに投宿。ロッジで飼われていた子ザルになつかれる。
テンジン・ヒラリー・ルートを歩く Day2 Chimbu ― 2016/01/06 11:20
12月6日
バスターミナルに停まっていた2台のバスのうち、1台はまだ暗い6時に、2台目は7時に出ていった。さすがにバンダルから乗る客はおらず、この先で乗客を拾いながらカドマンドゥへ向かうのだろう。私は6時に起きて荷物をまとめ、7時に朝食、7時半に出発。この時間割がこの後も標準となる。

ロッジの前で子ザルに餌をやっていた。餌はチウラ(干飯)。

私も朝食のチベッタンブレッドに蜂蜜をつけて食べ、7時45分にバンダル(2180m)を出発。初めはバイクが走りそうな泥道のゆるやかな下り。しばらく行くと地震で崩れた家や寺院がある。

リク・コーラが流れる谷間に出て、さらに下っていく。日が射して暖かいが、思ったほどではないし、暑いと足に汗をかくからと、アプローチ用の軽いシューズを履いていたのが、さすがにヒマラヤの道、石がごろごろしていて、足首が痛くなってくる。

キンジャ(1630m)に着く前に、吊り橋を2度渡るのだが、そのときに突然めまいがして、気分が悪くなってくる。キンジャのチェックポストでトレッキング許可証を見せる。なんとチェックポストは地震のときに中国が送った救援物資のテントだった。

キンジャで昼食となるが、気分がどんどん悪くなり、スープくらいしか食べられず、突然腰も痛くなる。ぎっくり腰かなと思ったが、腰痛の原因は心因性だから、気分が悪くなったことの不安が痛みを引き起こしたのだろうと判断。それでもなぜ気分が悪いのか原因がわからない。とりあえず、トレッキング・ブーツに履き替え、不安を抱えたまま今日の目的地セテへ向かう。キンジャから先は地図に”険しい登り”と表記があるほどの急坂だが、登りで苦労する以上に、めまいと吐き気で、休み休み登っているうちに、ついには動けなくなり、セテまで半分ほど行程を残した、チンブというところでギブアップ。食欲もなく、ロッジの部屋に入ると靴を履いたまま倒れるように寝てしまう。
テンジン・ヒラリー・ルートを歩く Day3 Goyam ― 2016/01/06 12:06
12月7日
5時起床。6時にラジューくんが様子を確かめに来る。まだ気分は本調子ではなく、紅茶とヌードルスープのスープだけ飲み、昨日の遅れを取り戻すため、今日はいつもより早く7時10分に出発。

30分ほど歩いて、来た道を振り返る。キンジャ(1630m)からラムジュラ・ラ(3736m)まではずっと登りだが、さすがに険しい部分は終了。8時20分、昨日泊まる予定だったセテに着く。

さらに登って、10時にダカチューのロッジで休憩。今回のトレッキング初のスプライトを飲む。丘の上に出たので、遠くに雪をいただいた山々が見えてくる。

11時45分、ゴヤム(3220m)着。私の様子を見て、ラジューくんが、どうしますか?と聞くので、気分が悪いから今日はここで泊まろうと応える。この決定がこのトレッキングに意外な影響をもらたすことになった。

ヒマラヤ山中とは思えない、場違いな南の島のポスターが貼られたロッジの部屋で休んでいると、外で話し声がする。ネパール人とは思えない日本語アクセントの英語を話すガイドと英国人の2人組だった。が、ネパール人と思った青年は本物の日本人で大阪の人。ジリで英国人に声をかけられ、パーティを組んでエベレスト・ベースキャンプまで行くのだという。日本人はツトムくん、英国人はネイサンと言い、2人とも自転車で世界旅行中の冒険野郎だった。

ロッジはタシデレ・ロッジ(タシデレはチベット語で、こんにちはという意味)と言い、ご主人は陽気な学校の先生で、仙台と名古屋に子供が住んでいるそう。私は夕食のベジ・モモを食べてすぐ寝てしまったが、その後、チャン(どぶろく)をふるまってくれたらしく、翌朝、皆二日酔いで頭が痛いと言っていた。予定通りに歩いていたら泊まらなかったはずのところでの思いがけない出会いだった。
テンジン・ヒラリー・ルートを歩く Day4 Junbesi ― 2016/01/07 21:38
12月8日くもり
6時に目覚めてみると、胃の調子が回復、お腹が空いている。寒いので、台所の竈の火にあたらせてもらい、猫を膝にのせて暖を取る。チベッタンブレッドとブラックティーで朝食。思いがけない出会いがあったロッジを8時に出発。道は森の中の緩やかな上りで歩きやすい。

ニルグマールさんが2羽のダフェを見つけて教えてくれる。体調がよく、道も歩きやすいので、昨日までの暗い気分が前向きになってくる。

9時40分、ラムジュラ・ラに着く。峠には地図に載っているヒマラヤン・ロッジの他にラスト・ホテルというロッジが出来ていて、オーナーはチンブーのロッジで会ったおじさんだった。

峠からは森の中をどんどん下る。2時間ほど、ひたすら下っていき、小さなゴンパのある村を過ぎると、遙か谷の下にジュンベシが見えてくる。

村へ行く途中のタシ・トンモン・ゴンパに立ち寄り、修行中のラジューくんの従弟を表敬訪問。従弟が本堂を開けて中を見せてくれる。本堂には立派な曼荼羅がいくつも下がっていた(真ん中に立っているのが従弟のドルジェ・ラマ)。

12時30分、ゴンパから急坂を下ったところにある、従弟推薦のロッジ、ハウス・ナマステに投宿。ゴンパから一番近く、少年僧たちの溜まり場になっているらしい。昼食の後、集まっていた少年僧たちと一緒にテレビでプロレスを見たりした。昼食にトゥクパを頼んだのだが、これが間違い。若い奥さんなので、伝統食を作るのが苦手なのかもしれない。ナムチェのナマステ・ロッジのトゥクパは美味しいのに。

少し遅れて現れた日英自転車野郎コンビもこのロッジで泊まることに。

18時30分、ポテトチップスとガーリックスープの夕食。エベレスト街道でポテトチップスを頼むと、フレンチフライが出て来るのだが、ここではちゃんとポテトチップスだった。やっぱり奥さんは西洋料理の方が得意なのかも。