テンジン・ヒラリー・ルートを歩く Day13 Lobuche2016/01/15 10:26

12月17日、晴れ
5時30起床。薄桃色に染まった朝焼けのヒマラヤが美しい。
ロッジには(チュクン全体でも)私達以外には、インド人の青年とガイド、アシスタント・ガイド(兼コック)しかおらず、昨夜、話をしたら、オーストラリアに住んでいるインド人で、これからアイランド・ピークに登るのだそう。頭が痛いらしく、ガイドから薬を貰って飲んでいた。強い人はどんどん歩けてしまうが、体が高度に慣れないので、高山病になりやすくなる。「一人で登るなんて凄いですね」と言ったら、「彼ら(ガイド)がいてくれるからですよ」と謙虚な人だった。
6時30分、トーストと片目玉焼の朝食。7時15分に歩き始める。今日はディンボチェまで下ってトゥクラ・パスを越える、休憩を入れずに歩いて6時間はかかる長丁場なので、いつもより早めに出た。これがコンマ・ラ越えだと9時間かかるので、5時には出ないと明るいうちにロブチェに着かない。
ヒマラヤの朝焼け
ディンボチェまでは下りなので問題はない。そこから集落を見下ろす丘の上へ登ったところで、意外に調子がいいので、これならコンマ・ラを越えられたかもしれないな、と(ちょっとだけ)思う。
ディンボチェとアマ・ダブラム
地震の被害が大きかったペリチェと、クーンブ・コーラの河原を下に見ながら、日射しがあって暖かい丘の上の道を行く。
地震の被害が大きかったペリチェ
左にタボチェ、チョラツェの2つのピーク、行く手の向こうにはチョラ・パスも見える。
多ボチェ・ピークとチョラツェ
しばらくすると、少し先の方に、自転車冒険野郎コンビが歩いているのが見えてくる。彼らは高度順応のためにナムチェで2泊したので、私達より1日遅れていたが、私達がチュクンで1泊したので、ここでまた合流することになったのだ。
トゥクラ・パス
丘の端まで行くと、左下にトゥクラのロッジ、そこから右へ、クーンブ氷河の末端を登るトゥクラ・パスの白い道が見えてくる。地球の歩き方で「高山病にかかりやすい難所その3」に指定されている高度差350mの登りである。
10時45分、トゥクラのロッジでチキン・ヌードル・スープの昼食を食べ、いよいよトゥクラ・パスへ。2009年に最初に歩いて以来、私が最も苦手にしてきたモレーンの登りで、いつもより足が重いので、やっぱりハード。コンマ・ラ越えをやめて本当によかったと改めて思った。パスの上は映画「エベレスト3D」にも登場する、エベレストで遭難したガイドや登山家の碑が並んでいる場所で、5人で代わる代わる記念写真を撮った。
トゥクラ・パスの上の冒険野郎コンビ
14時すぎにロブチェ着。休憩を入れて7時間ちょっと。思ったより順調だった。

テンジン・ヒラリー・ルートを歩く Day14 Everest BC2016/01/15 11:16

12月18日、晴れ
6時起床。さすがに寒い。7時にチャパティとゆで卵、ブラックティーという朝定を食べ、7時50分に歩き始める。まずはゴラク・シェプまで、クーンブ氷河が干上がったモレーンの上を歩く2時間30分の登り。
ゴラク・シェプへの道
10時35分、少しバテ気味ながらも、無事ゴラク・シェプ(5140m)着(↓)。ロッジの前の白い砂地は池の跡、てっぺんの黒い丘がエベレスト・ビューポイントのカラ・パタール(5550m)、その背後に聳えているのがプモリ(7165m)だ。
ゴラク・シェプ(5140m)
ハムチーズ・サンドとホット・マンゴージュースの昼食を済ませて、11時30分にEBCへ出発。クーンブ氷河の土手(モレーン)の道(↓)を、ヌプツェの壁を右手に見ながら北上する。
モレーンの道
EBCは氷河の上にあり、氷河が動くので、毎年位置が変わる。今年は例年より手前で、2時間ちょっとで着く。エベレスト登山の最初の難所、悪名高いアイス・フォールが見えてくると、エベレストの峰はロー・ラ(6026m)に隠れていく。ゆえにEBCから山頂はわずかしか見えず、エベレストを眺めるには、EBCよりもカラ・パタールに登る方がいい。
クーンブ氷河とアイス・フォール
2010年のチョラパス越えのときに、欲ばって早朝カラ・パタールへ行き、その足でEBCへ行こうとしたら、氷河を渡る直前でスタミナが切れてしまった(ロンリープラネットには“1日で両方行くのは無理”とある)。なので今回が初EBCである。前回引き返した地点から少し先で、モレーンの急坂を下って氷河に入る。厚い氷の壁がせりあがった間をぬっていくので、つるつる滑って歩きにくく、危ない。
氷河を渡ってベースキャンプへ
シーズン中には世界中から登山家が集まり、テント村ができるベースキャンプだが、シーズン・オフの今は誰もいない。4月の地震のときに雪崩で大勢の人が亡くなったので、跡にケルンが立っていた。それまで雪崩はヌプツェで起きたものと思っていたが、ヌプツェではなくプモリだった。現地に立ってみると、ヌプツェならまだ距離があり、クッションとなる岩壁もあるが、プモリから氷河の上までは一直線で、雪崩が起きたら、ひとたまりもなかったろうと実感できる。この雪崩で、日本人で唯一犠牲となったのが、中国登山隊のドキュメンタリー撮影に参加していた山方浩さんという録音技師で、映画業界にいる友人の知り合いだった。ケルンの前で東京から持っていったお線香を焚き、山方さんを始め、犠牲になった多くの人々の冥福を祈った。
4月の雪崩で多くの犠牲者が出たEBC
同行した自転車冒険野郎コンビと一緒に記念写真を撮り合い、氷河を渡り返して土手の上の道をゴラク・シェプへと戻る道すがら、「前回はEBCまで行けずにモレーンの端で引き返したんだ」と言ったら、「それは正解でしたね」とツトムくん。急坂を降りて氷河を往復する、この最後の行程は予想以上にきつかったので、前回無理して先に行ったら、途中で力尽きて、日があるうちにロッジに戻れなかったなと改めて思った。無事に帰るまでがトレッキング(登山)である。