石巻かほく亭・いよいよ開演篇2011/08/21 10:29


万里さんから出演者を「三遊亭兼好さんに」という提案。「できたら、岡大介くんも連れていきたい」。ということで、お二方を念頭に会場とスケジュール合わせ。万里さんは、ボランティアの人達にも聞いてもらえる、と専修大学が希望のようだったが、教室が使える日と兼好さんのスケジュールが合わない。「他の落語家さんにする?」と聞くと、「いったん“兼好さん”と考えたら、彼しか考えられなくなった」というので、兼好さんのスケジュール優先に。ドイツ公演に行っていた師匠の帰国を待って、日時は8月20日、場所は、そのときには営業再開している石巻グランドホテルの宴会場、ということになる。ずっと“石巻で落語会”と呼んでいた会の名称を、万里さん提案の「石巻かほく亭」とし、主催を三陸河北新報社、企画を渦産業(万里さん)と私にしていただく。
兼好師匠監修で高座を高くする
8月20日、仙台駅から桂さんのBMWで石巻へ。会場のグランドホテルは、7月に来たときはまだ工事中で、外から見ただけだったが、中に入ってみたら、すごく立派なホテルだった。さっそく会場をチェック。兼好さんのダメだしで、高座をさらに高くする。落語は全身を見せる芸なので、高低のない会場では高座をかなり高くしないと、後ろの席まで見えない。万里さんは「演者の頭が天井につかない程度に高く」とメールで指示していたのだが、冗談だと思われたらしい。さらにマイクや照明をチェックし、段取りを決める。
お客様をご案内。

1時30分開場、お客様が入り始める。受付では、三陸河北新報社編集の「大津波襲来 石巻地方の記録」がよく売れている。
開演15分前。

開演15分前で6分の入り。予約は180名だったが、結局、来てくれたのは145名。実は同時刻に近所の学校で、ドリカムのコンサートがあり、若い層はそっちに流れたらしい。ライバルがドリカムとは…。
ご当地ソング、石巻の女(ひと)を客席と合唱。
人数的にはちょっと残念だったが、最前列から埋まっていく客席にお客様の期待感を感じる。年配の方が多く、子供もいることを意識した兼好さんのまくらとネタ(転失気)を聞いて、「絶対に兼好さん」と言った万里さんは、いつも正しいと思う。最後列で見ていると、お客様の頭動きや笑い声で笑いの波動が伝わってくる。石巻の人達に元気をあげるなんて、おこがましい、こちらが元気をもらっている、“情けは人のためならず”って本当だなと思う。続いて、震災後、何度も石巻を訪れて、あちこちで歌ってきた岡大介さん登場。缶詰の空き缶で作った三線で、若いのに明治大正の演歌を歌う変わり種。客席から手拍子を貰い、最後は必殺ご当地ソング“石巻の女”を大合唱。休憩後、再び兼好さんが登場し、“替わり目”でしめ。アンケートの回収率も上々で、やわらかい笑顔のまま帰っていかれる姿を見ると、本当にやってよかったと実感。
やった感まんまんの3人。

石巻かほく亭・準備篇2011/08/21 09:08

石巻で被災した河北新報の桂直之さんと震災直後から連絡をとりあううちに、私でも何かできないかと考え、渦産業の木村万里さんの協力で、落語会を開くことにした。といっても、こちらの気持ちの押しつけになってはいけないし、実際、落語会を開けそうな、被害を受けなかった広い会場は、ほとんどが避難所になっていて、なかなか機会が見えてこなかったのだが、そろそろ出来そうだという連絡が来たので、7月1日、木村万里さんと会場候補の下見に行く。石巻に行くには、仙台で仙石線に乗り換えるのだが、津波の被害で、松島海岸から先が代行バスになるので、仙台から高速バスに乗ることにする。便は1時間に1本で、乗車の頃には満員に。バスは山側から石巻に入るため、片付けが進んだ町は、ところどころに積み上げられた瓦礫がなければ、ほとんど正常に見える。
仙台からバスで石巻へ
最初に見に行ったのは、石巻専修大学。ここは、ボランティア・センターになっていて、石巻にボランティアに来た人は、ここで登録し、各地へ振り分けられる。広々としたキャンパスには、まだボランティアが寝泊まりするテントが幾つか。最盛期はいっぱいになったそうだ。大学は、震災の影響で新学期の始まりが大幅に遅れたため、夏休み返上で講義を続ける。そのため、借りられる教室があまりない。ここには森口記念館という大きな講堂があるが、ちょっと広すぎる。いっぱいの客席とガラガラの客席では演者のやる気も、盛り上がりも全然違う。そこはプロの万里さんに全面的にお任せ。会場を見た万里さんの頭の中で、あれこれアイデアが動き出すのが見てとれる。やっぱり石巻に来てよかった。
石巻専修大学の教室
次に見に行ったのは、料亭竹の浦。ここは津波を免れ、いち早く営業を再開したところで、ご主人が笑いに関心があるとか。会場を見せてもらって外に出ると、入れ替わりに、お斎をするらしい喪服の人々がやってきた。まだまだ悲しみが続いていることを肌で感じる。
料亭竹の家の広間
最後に、三陸河北新報社を表敬訪問。震災の話をうかがう。津波は2階まで押し寄せたので、社員の方々は3階に避難したそう。窓から見える自動販売機(↓)によじのぼって、塀づたいにビルに入って難を逃れた人もいて、三陸河北新報社が編集した写真集「大津波襲来」にそのときの模様が載っていた。震災後、しばらくは避難してきた近所の人達とビルの3階で共同生活をしていたのだそうだ。石巻は日日新聞の手書きの壁新聞が有名だが、三陸河北新報社は、記事のデータを入れたUSBを毎日仙台の本社に記者が持参し、仙台で印刷したので、震災後3日目から新聞を発行できたそうだ。
三陸河北新報社からの眺め
帰りは、桂さんの車で仙台まで送ってもらう。海岸側の道を通ると、まだ傾いた電柱や、1階がボロボロになった住宅が並んでいる。これを“復興”するのは容易ではないと思う。
傾いた電柱

公共交通機関が使えないか、使えても不便なので、結局移動は車ということになる。したがって朝晩の通勤時間は車が溢れ、高速の料金所では、いちいち被災証明を見せなければならないので長蛇の列が出来る。名付けて復興渋滞。しばらくの間、高速なんか無料にすればいいのに。役人は机の上ばかり見て、土の上に立っていないことの証明である。
復興渋滞に巻き込まれる

仙台に着き、桂さん行きつけのワイン・レストランでワインをご馳走になり、帰宅。結局、下見に行った候補場所ではなくて、8月1日から正常営業を始める石巻グランドホテルの宴会場が使えることになった。


佐野への旅(3)2011/07/15 10:36


佐野は都心から近いのに、あちこちに懐かしい里山の原風景が残っている。
のどかな田園風景
佐野の名所、出流原の湧水池。優雅に鯉が泳いでいる。畔には弁天様の神社がある。
出流原の湧水
湧水池のご神体らしい青大将、発見。人に見つめられるのが嫌らしく、逃げ回っていた。
湧水のご神体(?)

畔の茶店でいもフライを食べる。いもフライとはゆでたジャガイモにパン粉をつけて揚げたもので、知られざる佐野のB級グルメ。1串80円で佐野基準は1人前2串から。
いもフライ、1人前2串

佐野はラーメンが発達したのも当然の粉もの文化都市だった。佐野の基本的もんじゃ焼きは、なんとキャベツ抜きだという。ほとんど粉とソースだけ。佐野、恐るべし!


佐野への旅(2)2011/07/15 10:02


佐野といったら、やっぱりこれ。名物佐野ラーメン。これはお店のお薦めのしょうがラーメン。手打ち細麺さっぱり醤油系の佐野ラーメンの中でも、さらにさっぱり系。
佐野といったら佐野ラーメン
唐沢山から都心方面を見る。晴れた日にはスカイツリーが見えるそうで、下に証拠の写真が貼ってあった。
晴れた日はスカイツリーが見える…。
唐沢山は、もと山城で、佐野庄を拓いた佐野氏が鎌倉時代から戦国時代にかけて築いたものとか。今は山頂は神社になっているが、堀割や物見台の跡などがきちんと残っていて、城好きにはたまらない一品かも。
もと山城、今は唐沢山神社

城址の入口にはレストハウスがあって、軽食が食べられるし、お土産が買える。
朝堀たけのこ発売中




佐野への旅(1)2011/06/15 11:49

突然、佐野へ行くことになった。北千住から東武線に乗り、駅をおりると、そこはラーメンの町だった。駅ビルの案内所に並んだラーメンのサンプル。
駅からラーメン
駅前広場におしどり像、駅前通りを進むと、交差点になぜかオベリスク。だんだんと佐野市民のオブジェ好きに気づき始める。
駅前にオベリスク
今回の旅の目的は、フィルムコミッション活動に積極的にのりだしたい佐野市のロケーション・ハンティングに同行したもの。戦災を逃れた市内には、ほどよく古びた建物が残っている。下は吉井酒造。奥に大谷石造りの蔵がある。
蔵元のいる通り
古刹・東光寺の山門。趣のある小ぶりな寺だが、境内に新しい仏像が幾つも建っているのがちょっと目障り。住職がオブジェ好きなのだろう。
趣のある古刹の山門