アンナプルナ1周― Day11 マルファ2012/01/12 18:04

12月18日6時起床。7時30分に、テジくんが揚げたチベッタン・ブレッド(昨夜タネを捏ねたのもテジくん)と紅茶で朝食。宿には白猫がいて、宿のおばさんの姿が見えないと鳴き、おばさんがご飯にミルクをかけた猫まんまを用意すると、私達が怖くて近づけないといって、また鳴いている。困った奴である。
カクベニのロッジの猫
8時少し前に出発。今日はカリ・ガンダキの流れに沿って、いよいよマルファまで下るのだ。
カリ・ガンダキに沿って下る
30分ほどでエクリバッティに着く。本当はチャンチャ・ルンバという村らしいが、以前、一軒宿だったので、エクリ(1軒)バッティ(宿)という名になったという。今では宿は数軒に増え、ホテル・ヒルトン(↓)やホリデイ・インまである。
エクリバッティのホテル・ヒル・トン
エクリバッティの先で河原に降り、さらに南下。途中、放牧地に行く山羊の群れを追い越す。
放牧に行く山羊の群れを追い越す
広い河原を横断し、さらに下る。ジョムソンに近づくにつれ、正面のダウラギリとトゥクチェ・ピーク(6920m)が、次第に山に隠れていく。
カリ・ガンダキの河原を歩く
10時、ジョムソン着。チェックポストの建物の外に、ジョムソンの“今日の天気”が出ていた。最低気温は-4.5℃、最高気温は11.2℃。写真を撮っていると、テジくんに“それは一昨日の天気ですよ”と言われる。確かに。
ジョムソンのチェックポストの“今日の天気”
ジョムソンからベニまでマイクロバスの便がある。車の往来が多い道のうえに、風が強く、埃っぽくて、とても歩けないというので、明日マルファからタトパニまでバスで移動することにしていた。だが、バス乗り場の前を通ると、なんとバンダ(ストライキ)で、移動できない人達が溜まっている。その中に、ハイ・キャンプで一緒だったフランス・イスラエルの4人組を発見。彼らはラーニパウワからまっすぐジョムソンに降りて1泊し、今日バスでベニへ降りるか、飛行機でポカラに出る予定だったらしい。
バンダ!
普通バンダで止まるのは車両だけで、飛行機は飛ぶのだが、ポカラの飛行場で警備員だか警官だかが自殺したとかで、今日は飛行機も止まり、ジョムソン空港が閉鎖になっていた。話を聞くと、11時にはベニ行きのバスが出るという。このままバンダが終われば、明日マルファからバスに乗れるだろう。
ジョムソンの猫はイカ耳
10時30分、バス乗り場の少し先にあるテジくん行きつけのホテル・ダウラギリで休憩。ご主人は日本に出稼ぎに行っていたことがあり(観光ビザで働いていたことがバレて強制送還されたそう)、日本語が少し話せる。奥さんはとても陽気な人で、私が1人なのを見て、“次は大勢で来てね”と冗談まじりに言って笑う。ゲストがおらず、料理人がいないから凝った料理は出せないが、ダルバートならと、家族の昼食を出してくれた。“これも食べる?”と言って、山羊の内臓を煮込んだカレーをサービス(味はカレー味のもつ煮込みみたいな感じ)。ここで食べたダルバートが、今回のトレッキングで食べた中で一番美味しかった。
ホテル・ダウラギリの山羊の内臓カレー
山羊の内臓は煮込みに(↑)、内臓以外は干し肉に(↓)。
山羊の干し肉
12時20分、“次は大勢で来ますね”と、おばさんに挨拶して出発。マルファへは車道を歩くのだが、何しろ風が強く、ときに目が開けていられないほど砂埃がひどい。これで車の往来があったら、どういうことになるのだろう。
マルファ入口
13時30分、マルファのホテル・マウント・ヴィラ着。なんと宿の向かいが河口慧海記念館で、宿のご主人が記念館のオーナーだった。
河口慧海記念館入り口
部屋に荷物を置き、シャワーで埃を洗い流すと、まずは村のゴンパを見学。村を見下ろす高台にあるニンマ派のサンテンリン・ゴンパは1996年に再建されたもので、新しくてきれい。
慧海が招かれた仏間
その後、宿に戻って、ご主人に記念館の鍵をあけてもらい、中を見せてもらう。慧海が着た服や生活用具が置かれた部屋の隣に仏間がある。慧海は明治33年3月から6月にかけて、この家に滞在し、チベット行きの機会を待った。当時、この家の主人で村長のアダム・ナリンが慧海に詠んでもらおうとした一切蔵経が仏間の三方の壁に納められていて、正面に慧海の写真が2葉飾ってある。慧海も座ったであろう仏間の中央に座ると、百年という時間が消えてしまった。
百年前に慧海が見た風景
私の部屋の外には、<チベット旅行記>に“畑の向こうにカリガンガーがあって、その向こうに低い松がはえている。その松山の上には、例のごとく雪山がそびえている。実に清浄の境地である”と書かれた、そのままの景色が広がっている。慧海の言う雪山とは、ニルギリのことだった。